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リグジン・アンモの、旅のトランク。

辺境に心惹かれる大学生の旅の記録を、トランクに投げ込むように。

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2010ラダックの日記、洪水。1

ニュースを見ていて、これからの日本の街ってどうなるんだろう。とぼんやり思った。
これから東北の多くの街はもう一度、作り直されることになる。
どんなコミュニティがいいのか。どんなコミュニティが強いのか。

あの津波の映像を見て、これなら、という案はとてもではないが浮かんでこない。
それでも、物流が止まったり、ガス・電気・水などのライフラインが止まったりしても大丈夫な街は考えていくべきかと思う。
私はそんな危機に強いコミュニティをラダックで体験した。日本でそれが再現可能かと問われれば、今はNOだと思うが、何があるか分からない時世じゃないか。

昨日母と納戸の中の非常用持ち出し袋、及び保存食なんかの整理をしていた。
その時に母が「ラダックに行って、何も変わってないなと思ってたんだけど。
非常用品の話をしはじめて、リスト作ったりしてるあんたの目の色が変わったのを見て、
もともとサバイバルみたいな地域に行った上に、被災してきたんだなぁって思ったわ。」と言った。

私も、そういえば私ラダックで被災したんだった、と思いだした。
でも洪水によって自分が何か変わったという気は毛頭ない。ただ、生き延びるには何が必要か、ということに興味が湧いたのは確かである。


まずは私が体験したラダックの洪水について書いてみたい。





2010年8月、大洪水が北インドのラダック地方を襲った。

8月20日時点で、洪水被害による死者は205人(うち外国人旅行者は6人)、負傷者は607人、行方不明者は約400人、被害を受けた家屋は945戸だったという。(どなたかそれ以降のデータをご存知でしたら教えてください。)
3500メートル以上の乾燥した山岳地帯であり、ヒマラヤ山脈の南側で雨雲がせき止められるために、滅多に雨が降らないところだ。



私はパキスタンに程近い岩山のど真ん中の小村、ハヌパタという村に3ヶ月暮らしていた。
人口は70人程度、15軒ほどの家が、こぢんまりと身を寄せあうように建っている。
標高は3700メートルほど、私がいたのは夏の3ヶ月だったが、一日の中にまさに春夏秋冬の寒暖差がある。夏でも朝夕薪ストーブは欠かせないが、日中になると洗濯物は一瞬で乾くような場所だ。

右を向いても左を向いても、岩山ばかりの険しい世界。
山奥から流れてくる雪解け水が、村人の暮らしを支えている。村人は上流から村まで10キロはあろうかという長い長い水路を山の中腹に走らせて、畑作を営んでいる。
標高が高く、小麦とコメが育たないので、大麦とカブ、キャベツなどの僅かな野菜を育てて、食の中心としている。



 






ほとんどの村人が、ヤギ・羊・ロバ・ヤクを飼っている。ヤギとヤクは乳を絞り、ヨーグルト、チーズ、バターなどを作る。もちろん温めてそのまま飲むこともよくある。羊は毛を刈り、糸を紡ぎ、布を織って服にする。ヤクの毛も織って、毛布を作る。チーズ、バター、羊毛、ヤク毛は、現金収入にもなる。
男たちは、農閑期の夏と冬は、中心都市のレーに大工仕事をしにいき、現金を得る。女たちは、トレッカーが多く通る村のキャンプ場を運営し、そこから収入を得ている。

    

私が初めて行ったハヌパタの初夏は、ようやく冬の雰囲気を払拭し、冷たい雪解け水が川をキラキラと流れ、その恩恵を受けた色とりどりの花があたたかい光の中で咲き乱れていた。こんな絶景の中で暮らせるなんて実感が沸かないな、と思ったことを良く覚えている。それくらい美しい村だった。


ただ、富士山より高いところで暮らすのだから、それなりのことはいろいろある。そのひとつが乾燥だった。私も行った当初は肌の乾燥が激しく、顔の表皮が固くなってひび割れ、現地の人に心配されるほどだった。現地の粘度の高い日焼け止めクリームをもらったら、コロッと治ったので、それもまた驚いたのだが。

それほどの乾燥の中に、異常をきたし始めたのは8月4日。
朝起きて部屋の外に出ると、屋根がなくオープンになっている部屋が水浸しになっていた。
屋根からはぽたぽたと垂れるしずく。
「アンモ、おはよう。あんなに雨降ってたのに起きなかったね。」
「えぇ、雨が降ったの!?」
「とってもね、雷も鳴ってたよ。」
「うそ~!」
確かに、外に出てみると道も濡れている。

私が起きなかったのは、その前日バスと車を乗り継いで、9時間以上掛けてレーから何とかかんとか、帰ってきたからだったのだが。(後から思えば、とてつもない幸運だった。2日後の次のバスでは、どこかの村で足止めを食い、おろおろしていただろう。バスが止まる村で予約なしで車をつかまえられたことも、ものすごく幸運だといわれた。)

  

   

その日はそれ以上のことはなく、アマツォクスパという村のお母さん互助会が運営しているキャンプ場でのんびりと過ごした。

夕方になってレーからNGO LEDeGのメンバーで、私の顔なじみであったツェリン姉さんとスタンジン兄さんが来たので、まだ濡れている床にござを敷いて、アマツォクスパのミーティングをした。
次の日、きれいに晴れ渡った空のもと、キャンプ場でワークショップをした。
と言っても、このキャンプ場でタギと呼ばれるスコーンのようなお菓子が売れないか、という検討を交えた試作(つまり外国人の私は美味しいかどうか、味見させてもらうイベント)と、価格の決め方やその記録の付け方をツェリン姉さんが教えていく、ピクニックのようなワークショップである。

 

昨夜の雨で、川原の緑は生き生きとしており、川は増水しているが、まだ透明度を保っている。みんなで円になって座り、タギを作って焼いていく。キャンプ場にいるトレッカーたちにもいくらかおすそ分けできた。
みんなタギでお腹いっぱいになり、幸せな気分で村へと帰ってから。


明るいはずの夏の夕方なのに、真っ黒な分厚い雲が空を覆い始めた。空の向こうで、稲妻が光っている。雨が降っているのも見える。

急いで外に出ると、みんな外にシートを持って飛び出してきていた。おばあちゃん、18歳のタシと手作りのはしごを登り、屋根に干していた杏を取り込み、ビニールのシートを掛ける。屋根全体を覆うにはとても足りないが、仕方ない。
まもなく大粒の雨がバタバタという激しい音を立てて降り始め、空が割れるような雷が鳴り始めた。あまりにすごいので、私はカメラを持ち出した。

20:00くらいまではほの明るい夏のハヌパタで、19時台なのに真っ暗なのが怖い。19:43、稲光が光る村をISO1000、F/10、20秒間の露出で撮った。何回もの稲光で、山も仏教旗タルチョックも写っている。



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2010ラダックの日記、洪水。2

それにしてもラダックの家は、とことん雨向きに出来ていない。

大体の家の屋根はフラット型かプール型(と私は呼んでいるが、要は屋上があり、その周りが薪を干すための台となっている)なので、大量の雨水を逃す術がない。都会の新しい家には、申し訳程度の雨樋があるが、古い家の多いハヌパタには少ない。

屋根に溜まった雨は、必然的に部屋の中に降ってくるのである。特に、その時私が滞在していた部屋は雨がそのまま降ってくる部屋だった。

私は眠るに眠れず、荷物の全てを部屋の隅にまとめて積み上げ、部屋の中央の柱と窓際の出っ張りを麻ひもで渡し、緊急用のアルミシートをその上に掛けて、その急ごしらえのテントの中で、一晩中三角座りですごした。寝台代わりのマットの周りには雨水が溜まり、部屋の中なのに島のようになっている。


(かなり水が引いた後。朝は写真どころではなかったので。)

カメラに水が掛からないように抱きかかえて身を縮める。アルミシートにはぼとぼとと茶色い水が降ってくるし、水は冷たいけど濡れた服は蒸れて暑いし、ダニはキレそうなくらいかゆいし、外からは何かが崩壊するゴロゴロという音がひっきりなしに聞こえる。どうして良いやら分からない不安な気持ちで迎えた朝日は、涙が出るほど嬉しかった。


外に出てみると、この異様な夜の間に色んなことが起こっていたことが分かった。
村はずれのキャンプ場にテントを張っていたネパール人労働者の男の子たち、欧米人トレッカーが村に来ている。みな一様にぐったりと疲れた顔をしている。村唯一のゲストハウスに明らかに収容能力を超えた人数が休んでいたらしかった。
家の人に聞くと、22:00頃にキャンプ場へ水が流れこみ始め、危ないと判断したトレッカー、労働者ともに村へとやって来たあと、そこに土石流が起きたという。あと少し判断が遅ければ、みんな流されていた、と誰かが言った。

人は全員無事だが、馬5頭、テント10張りと荷物の多くが流され、広いキャンプ場は土石流で壊滅状態。生活用水、農業用水の要である水路が全く埋まってしまった。
そして、ハヌパタから中心都市のレーに向かう道も、より奧へ行く道も土砂崩れで埋まってしまったらしい。


(大雨2日目)

夕方、壊滅したというキャンプ場を見に行った。まず、村から村はずれのキャンプ場に行くまでの道がめちゃめちゃになっている。歩いていく、というよりか岩を乗り越えていく部分あり、泥に足がのめりこむところあり、といった感じだ。

キャンプ場は岩石に埋まっていた。
山の上から大小の岩がなだれ落ち、全てのものを覆い隠し、岩ばかりの世界に変貌させていた。テントを張るためのキャンプサイトも、道路も、小川も、美しかった川原も、すべて土石に飲み込まれていた。

  
(1枚目、なだらかに見える奥の部分が全て岩石で埋もれているところ。2枚目、工事現場も重機も土砂崩れに巻き込まれて呆然とする労働者。3枚目、2階建てだったトイレの残骸。)


4頭の馬が、岩にうずもれて死んでいた。空に足を向けている馬もいた。5頭じゃなかったのか、と思って辺りを見回すと、石壁の向こうにガクガクと身体を震わせながら立っている1頭の馬がいた。なぜ立っているのかが不思議なくらい、憔悴していた。座ることも出来なかったのかもしれない。私には、見守ることしかできなかった。もちろん村人も知っていたが、何も出来なかった。次の日そこに行くと、馬は硬直したまま倒れて、死んでいた。




その夜も、雨は降った。私は自分の部屋の状況があまりにも悪い、と言うことで隣の家に泊めてもらえることになった。一部屋に、子ども6人、大人3人、私の総勢10人で寝た。
ここは雨が降り込まないし、隣で眠っている子どもの体温も温かい。しかし、上流から巨大な岩が流されてくるゴロゴロという地響きにも似た低い音、そして対岸がどんどんと崩され、崖になっていく崩落音が耳について、やはり一晩中眠れなかった。この雨の中、一番ストレスになったのはこの防ぎようのない音たちだった。
特に暗闇の中で聞くと、何が起こっているのか確認できないし不安でしかたがないのだ。


朝、5:00に起きあがり、外に出た。雨はやんでいる。今までのハヌパタではあり得なかった湿り気のある朝だ。

一昨日まで対岸は崖ではなかったのに、今や真新しい土の色が露出し、向かいから流れてきている川は突如として断ち切られて、濁流へとまっすぐに落ちていく。あれほど透明でキラキラしていた川は、今は泥色になってうねっている。そこにはやはり岩が流されてきているようで、ゴロゴロという大きな音が谷中に響いていた。

 
(大雨3日目。対岸が削られていく。)

目の前の風景が、音を立てて削り取られていく様を眺め、しばらく立ちすくんでいた。
時折、対岸の濁流に接している部分が削りとられ、耐えられなくなった地面が、音を立てて川の中に崩れ落ちていく。
巨大な岩が山の上から転げ落ちてきていて濁流の流れを乱し、歩いて10時間もかかった山向こうの村から流れてきたと思われる大きな木が泥流の中でのたうっていた。

見慣れた風景が、目の前で壊れていく。家に戻る途中、同じように外に出ていたドルカル姉さんに声を掛けられた。幼い赤ちゃんを抱きかかえた彼女の目にも、涙が浮かんでいた。
ふたりとも、何も言葉に出来ず、しばらく一緒に村を眺めていた。しばらくしてだんなさんのティンレス兄さんが来たが、昨夜は大丈夫だったか、という確認だけしてやっぱり黙ってしまった。

ハヌパタの人はよく、「ハヌパタ デモ ラガ?」と聞く。これは「ハヌパタはきれいだろ?」というような意味だ。彼らは自分の村の美しさに自信を持っていた。それがどんどん崩されていくのだから、悲しみは深かった。

初めてハヌパタに来た時の、岩山と岩山の狭間に透明な水が流れ、川辺に青草が茂り、あたたかく降り注ぐ光の中に可愛らしい花々が咲き乱れていた、あの夢みたいな景色はどこにも見当たらない。その場所も、根こそぎ流されてしまった。とても、同じ場所だとは信じられないし、信じたくない。


昼過ぎに、私が最初にお世話になっていた家へ顔を出した。この家の麦畑が3つ、流されたと言って、お茶を出してくれながらお母さんが泣いた。この家の麦畑は川沿いに多かったことは、私も知っていた。

この村で流された麦畑は、全部で6つ。
年一回の収穫に向けて端整こめて育てていた麦、数百年、幾世代にもわたって受け継がれてきた畑が、たった一晩にして流されてしまったのである。この岩山の中で、土地を使えるようにするために、何百年、もしかすると何千年、一体どれだけの努力が積み重ねられてきたのだろう。
本当に、岩と雪解け水しかない村なのだ。土壌が豊かで、水もふんだんにあり、温暖な日本とは正反対の世界なのだと思う。


(この畑も斜面をかなりよじ登ってこなければならない。)

大地は固く、つるはしも容易に入らないことはすでに知っている。10センチ掘るのも岩と固い土との戦い。川から、斜面の畑まで何キロにも渡って石を積み、水路をつくり、畑にする土地を耕し、水を継続的に入れ続けての畑なのだ。

少し離れた村でトレッカーがふたり流されたこと、以前トレッキングで滞在した隣村のフォトクサルで家が2軒流されたことも聞いた。


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2010ラダックの日記、洪水。3

雨はそれから毎日夜になると降り、昼も時たま降った。

レーでの被害の状況はラジオで入ってきた。死者の数は最初は300人、500人、最後には1000人、と日ごとに増えたが、それらが正確な情報なのか、いったいレーで何が起こっているのかは分からなかった。

特にひどいのは、街外れのバススタンドとレーに程近いチョグラムサルで、みな高台のゴンパに避難していると言うことくらいしか、私は聞き取れなかった。私もみんなもレーへ電話を掛けていたが、大概は通じなかった。後からレーの通信局もまた流されていたことを聞いた。


みんながレーにいる親戚や子どものことを心配したり、畑が流されたことを悲しむ一方で、村の中の生活は驚くほど淡々と営まれていた。
水道は目の前にある川なので止まりようがない(今は泥水が溢れているが)、ガスはプロパンを一応持っているが、いつも調理の半分は薪のストーブでするから、緊急ではない。
電気はもともと通っていないので、屋根の上のソーラーパネルで発電し、使うのは専ら夜の明かりだけなので充分だ。
食べ物は収穫期直前で畑にある。野菜も今は豊富だし、配給されている米と小麦粉はまだたっぷりある。それらがなくなっても、これからマメと大麦の収穫期だから問題ない。
水が泥水なのが困ったものだが、出来るだけきれいな水を汲む方法は知っている。バケツの中に貯めておけば、細かい泥も沈んでいく。
(私は泥水には耐性が無かったらしく、2日間寝込み、脱水症状に悩まされた。メディカルスタッフのお兄さんにもらった、子ども用のオレンジフレーバーつきの塩水を飲んで回復した。)

水路は収穫前の畑に水が入らないと枯れてしまうから直す、橋も流されたままではどうしようもないので順次掛けよう、ということになった。

それにしても、ハヌパタの人々はたくましい。
少し水量が落ち着いてくると、村人はみな川へと足を運ぶようになった。流木を拾って、薪にするのである。これから秋、そして凍てつく冬が来る。薪はいくらあってもいい。
滞在先のおじいさん、おばあちゃん、25歳のツェリン・ドルマ姉さん、タシ、私の5人でまだ水位が下がっていない川へ1時間掛けて、流されてきた流木を拾いにいった。程良い大きさだがまだ水分を含んでいる分は河原に広げて陽に当てる。すぐにでも使えそうな分は背負って持って帰る。
ひとり当たり20キロくらいの薪を背中に結わえ付け、また1時間歩いて帰った。さすがに肩がちぎれそうだなと思ったが、よく見るまでもなくおばあさんと私の量が同じで、それより多く背負っているのが姉さん、男性陣のふたりは2倍はあるんじゃないかという量を背負っていた。何日間か、この薪を集める作業が続いた。



8月13日、最初の雨から一週間。まだ雨は降ったり止んだりしていた。

「水路を直しに行こう」、と号令がかかり、それぞれの家ごとにひとり、もしくはふたりが出て、キャンプ場へと向かった。20人以上いる。

道路に沿って斜面の中腹に作られていた水路は土砂に飲み込まれて跡形もない。
まず、大人も子どもも一緒になって大きな岩をどうにかして掘り起こし、ごんごん下の川に落としていく。土砂がなだれたままで出来立ての急な斜面、上と下で同時に作業をしているため、危ない場面も多かったが、2日ほどかけて大体の大きなものは落としてしまうことが出来た。私も微力ながらもちろん手伝う。

  

翌々日は、本来の水路があったところまで土を掘っていく。
石の壁を積み上げ、中に小さめの岩を詰め、その上に削った土を投げ込んで突き固める、という作業を何回も繰り返す。

女性陣の主な仕事は土を掘ることと、必要な大きさの石をバケツリレーのように渡していくこと。
石の積み方はやはり技術がいるものなので、それらはおじいさんたちがメインの作業となった。私も少し挑戦してみたのだが、すぐに崩れてしまう。
おじいさんたちは、必要な石のサイズ、形を見極め、若者たちにどれを取れ、と指示を出す。それらはきっちりはまり込むし、ずれない。

私は石を拾っては渡す係りをしていたが、石を選んでリレーする係り、中間でつなぐ係り、それらを投げ込んでいく係り、それぞれ適材適所があり、なんとなく一人ひとりの持ち場が決まっていった。

昼はみんなで円になって、中心に焚き火をし、お茶を沸かして昼ご飯を食べた。たくさん働いたから、ご飯は美味しいし、みんなニコニコしている。みんなそれぞれ持ってきたものを分け合って食べるのも楽しい。
まじめに考えるとこの作業は災害復興のためなのだが、さながらピクニックみたいだなぁとのんきに思う。子どもたちはまだ冷たく、水量も多い川で水遊びをしておとなたちに叱られている。

  

  

もちろん、こうした雰囲気の背景として、ハヌパタの被害がラダックの被災地各地に対して比較的軽微だったこと、人的被害が出ていないことは大きい。
それでも、こうもほのぼのとみんなで協力して作業が出来るものか。何が入ってこなくても自分たちで食べて、生きていける自信があるということは強いのだと感じた。


こうして、水路の復興が4日、橋の復興が2日、ほぼ一週間で村の中のライフラインは通常に戻った。収穫直前の畑に水をやれるし、食器も髪も衣服も洗える、いつもどおり橋を渡って山に羊・ヤギ、ロバを連れて行けるようになった。

 
(1枚目、ロバで出勤するの図、2枚目羊とヤギを村から出しているところ。)

実質的な現金収入源であるキャンプ場が壊滅したままなのが痛いが、もう秋口だ。トレッキングシーズンが終わりつつある上、レーで大洪水になっている状況で登ってくるトレッカーも多くはない。(命知らずも多少はいたということだ。)次の夏まで修理はとっておくことになった。


道は中心都市レーからパキスタンに程近い第二の都市カルギルまでなんとか行けるようになった、という情報がこの頃になって入ってきた。ただ、西方ラダックの道はかなりの範囲でがけ崩れで壊れており、やはり車が通れるのはここから3日あまり歩いていったカルツェという村かららしかった。(私が歩いたら確実に4、5日はかかる。)

しかし、ハヌパタの人にとって道が壊れたことで不便なのは、週に一回のバスが来ないことくらいだったので、直そうという声までは上がらなかった。

そして、私がお世話になっていたNGOジュレーラダックの方たちとも連絡を取ることができた。どうやら、衛星電話を使って掛けてくれたらしい。
日本では私と連絡が取れなかったことから、外務省と両親が連絡を取り合ったり、NGOの方が新聞の取材を受けたりしていたらしい。一方の私は、日に何度か電話は掛けていたが掛からないのだから仕方ないし、レーのあまりにも悲惨な状況を知らなかったので、そこまで緊急性の高いことだとは思っていなかったのだ…。
(私がレーの洪水のニュースを映像で見たのは、後日デリーに戻ってからだった。)

この修復の期間中に、インド軍の小型ヘリが4機、配給食糧を持って村のまん前にあるマメ畑に下りてきてくれた。
のどかな村のど真ん中にいきなり軍用ヘリが飛んできたので、私も含めてみんなびっくりした。
ラダックの多くの村は、インド政府から小麦、コメの配給を受けている。バスが多くの村へ行けなくなり、さらに外部との連絡が全く取れない状況になっていたことをうけての配給ではあったのだが、まさかこんな非常時に、ヘリコプターを使って持ってきてくれることなど、誰も期待していなかったので、驚きは大きかった。

コメ、小麦、いつもは配給されない砂糖が数袋、ヘリから下ろされると、わぁ、と歓声が上がった。村人たちが駆け寄って、カタックといわれる白い絹をインド軍操縦士の首に幾枚も掛ける。これはチベット文化圏独特の祝福の文化なので、いわゆる「インド人」の操縦士たちは分かった、分かった、とお手上げ状態になっていて、少し笑ってしまった。

また後日、インド軍の衛生部隊もトレッキングで村に来てくれた。


(ひとりだけインド人らしくないのが雑じってるけど、錯覚でしょう。)


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2010ラダックの日記、洪水。4

話は戻るが、私はこれらの過程においてハヌパタのひとつの自立したコミュニティとしての線引きを見た気がした。
何キロにもわたる水路や、川にかかる橋、畑、設備としての村。自分たちが作ったものは自分たちでメンテナンス出来る。







(1枚目はハヌパタ、見えないが山の中腹部と川沿いに水路が延々と続いている。2,3枚目はラダックの道路、ほとんどが出稼ぎに来たネパール人やビハール人たち、少々のラダック人によって作られている。)


(ちなみに働いているネパール人たち。大学生の私と同い年の人、もっと年下も多そうだった。ラダック西部の道路工事現場では、ほこりと日焼けで真っ黒になった彼らをよく見かける。)

しかし道路は、住民の要望でできてはいるが、政府が作ったものだ。そこは、彼らの力の及ぶ管轄ではない。そして必要ではあるが、なかったら生活できない、というものでもないのだ。(無かったら私はあの村まで行けなかったので、ちょい小声で。)

彼らは、自分たちに必要なものは、自分たちで作ってこの地で生きてきた。ということは、生きていくのに必要なものは自分たちで整えられる用意があるのだ。
彼らはインド軍が救援物資を持ってきてくれることは、はなから期待していなかった。それは、本当は自分たちの作った作物で生きていけるからだ。
「村」という生命維持システムを自分たちで作り上げ、維持していく。
出来る範囲で暮らしていく、自分の手の届く範囲で暮らしていくということが、モノが溢れていなくても、お金は無くても、こんなに安心感をもたらすものなのだな、と思う。


ラダックでも村の形態はそれぞれで、隣村だろうが村によって全然違う風景がそこにはある。
しかし、ラダックの田舎の村が「コミュニティメンバー全員で生きていくこと」そのものを目的としているコミュニティである、というのは共通しているのだと思う。

これらの目的を達成するために器として作られたもの、それが「自分たちでつくり、自分たちでメンテナンスしていける設備としての村」ではないだろうか。
何が無くても暮らしていけて、何が起こっても自分たちで治せるもの。ある意味で、自己治癒力を持った生き物のようなあり方である。

人のつながりとしてのコミュニティと、村の設備としての概念が混乱していると思われるかもしれないが、実際このふたつを切り離すことは出来ない、というか人と人の関係が成り立っていないところに、そういうものが出来上がることはないと思う。


日本に帰ってから、タクマチクというけっこう被害の大きかった村にステイしていた友人の話を聞いたが、洪水が起こって、いくつかある橋が全て流されてしまい、外部との行き来ができなくなったときに、パニックに陥ったのはやはり外国人トレッカーだけだったという。


<生き延びるコミュニティをつくるために私が大事だと思う条件>
1 自分たちの手でつくる、自分たちの技術でメンテナンスできる
2 物流が途切れてもその範囲内で暮らしていける、コンパクトだけど包括的な生活システムがある(食糧生産、ソーラーパネルによる電気・水の自給、コンポストトイレなど村の中で自然との循環サイクルを作る。)
3 みんなで責任を共有する
4 一番大切なこと、コミュニティの核にあることは「全員で生き延びること」


村の生活の持続にはコミュニティメンバー全員の参加が欠かせない。
そのため、ハヌパタでも家畜の放牧などは全ての家が交代で行っている。
誰かがお金を払って誰かに委託する、なんてことはない。コミュニティに対する最大の貢献は、「労働」そのものであるからだ。それによって多少のいがみあいが起ころうとも、簡単には離れられなくなる。逆にいえば、みんなに居場所が与えられている。

都市と農村ではそもそも存在意義が違うし、都市の中で農村的コミュニティが構築されることはないだろう。ただ今後、人々が都市から農村へとまた流れることはあるかもしれない。
その時に、ラダックのコミュニティのあり方は参考になるのではないか、と思う。
もちろん、日本の伝統的な村も、かなり近いあり方であったとは思うのだけれど、今は機械化などで失われてしまったことが少なくないのではないだろうか。

最後に、しあわせな収穫期の話。


水路と橋の復興が終わって一週間ほどたって、いよいよマメと大麦の収穫期に入った。
一日畑で素手でマメと大麦を引き抜いていく。(男性陣は時には月明かりの中夜11時まで収穫と移動をしていた!)
あかぎれは痛かったけど、無事に収穫できたことの喜びは大きかった。半分泥で埋まってしまった畑にも行った。半分だけでも残ったことを感謝した。

全ての収穫を終え、収穫物を太陽にあてて干す。
脱穀作業のため、山から20頭以上のヤクたちが帰ってきた。ヤクがこれほど巨大な動物だとは思っていなかったので驚いた。穏やかなのもいれば、暴れん坊もいる。この巨大な動物に収穫したマメと麦を踏ませ、殻から実を押し出すのだ。

 
(女子禁制の初穂儀礼。聖樹のヒマラヤ杉の1本が女神様だからだとか。枠の中にはいっちゃダメなだけみたいで、写真はOKだった。)



















収穫期は朝から晩まで忙しかったけれど、充実した時間だった。
私はハヌパタに行った後、別の村に一週間行く予定を立てていたのだが、それをキャンセルした。ハヌパタでも収穫期はその日ごとに作業内容が変わっていくので、出来るだけ多くの仕事を流れとして体験してみたかったからだ。


収穫期に来たNGOジュレーラダックのスカルマさんは、あかぎれだらけの私の手足を見て、日本人じゃないね、と言って笑っていた。


ちなみに道の話だが、洪水から2ヵ月後、私が帰る直前にNGOジュレーラダックの呼びかけによって土砂崩れの部分を迂回する道を、急遽川の中に作ってくれ、ありがたいことに私はハヌパタからレーまで車で帰ることが出来た。

以上が私がラダックのハヌパタ村で遭遇した洪水の一部始終だ。
ちなみに2週間ほど前、道路工事の責任者のおじさんからメールが来て、中断されていたハヌパタでの仕事を再開するそうなので、そろそろ始まっているのかもしれない。夏にはハヌパタより奥まで道路が通るだろう。数ヵ月後、数年後には奥の村までバスが通るかもしれない。
バスが通るようになると、現代文明が入り込むのだということを、私は自分の目を持って見た。
今はコンパクトで強い、生き延びるためのコミュニティも、現代的なモノや考え方が入っていく中でまた変わっていく。

数年後、数十年後、ハヌパタはラダックは、日本はどんな姿をしているのかなぁと、またぼんやり思う。


おしまい

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