雨はそれから毎日夜になると降り、昼も時たま降った。
レーでの被害の状況はラジオで入ってきた。死者の数は最初は300人、500人、最後には1000人、と日ごとに増えたが、それらが正確な情報なのか、いったいレーで何が起こっているのかは分からなかった。
特にひどいのは、街外れのバススタンドとレーに程近いチョグラムサルで、みな高台のゴンパに避難していると言うことくらいしか、私は聞き取れなかった。私もみんなもレーへ電話を掛けていたが、大概は通じなかった。後からレーの通信局もまた流されていたことを聞いた。
みんながレーにいる親戚や子どものことを心配したり、畑が流されたことを悲しむ一方で、村の中の生活は驚くほど淡々と営まれていた。
水道は目の前にある川なので止まりようがない(今は泥水が溢れているが)、ガスはプロパンを一応持っているが、いつも調理の半分は薪のストーブでするから、緊急ではない。
電気はもともと通っていないので、屋根の上のソーラーパネルで発電し、使うのは専ら夜の明かりだけなので充分だ。
食べ物は収穫期直前で畑にある。野菜も今は豊富だし、配給されている米と小麦粉はまだたっぷりある。それらがなくなっても、これからマメと大麦の収穫期だから問題ない。
水が泥水なのが困ったものだが、出来るだけきれいな水を汲む方法は知っている。バケツの中に貯めておけば、細かい泥も沈んでいく。
(私は泥水には耐性が無かったらしく、2日間寝込み、脱水症状に悩まされた。メディカルスタッフのお兄さんにもらった、子ども用のオレンジフレーバーつきの塩水を飲んで回復した。)
水路は収穫前の畑に水が入らないと枯れてしまうから直す、橋も流されたままではどうしようもないので順次掛けよう、ということになった。
それにしても、ハヌパタの人々はたくましい。
少し水量が落ち着いてくると、村人はみな川へと足を運ぶようになった。流木を拾って、薪にするのである。これから秋、そして凍てつく冬が来る。薪はいくらあってもいい。
滞在先のおじいさん、おばあちゃん、25歳のツェリン・ドルマ姉さん、タシ、私の5人でまだ水位が下がっていない川へ1時間掛けて、流されてきた流木を拾いにいった。程良い大きさだがまだ水分を含んでいる分は河原に広げて陽に当てる。すぐにでも使えそうな分は背負って持って帰る。
ひとり当たり20キロくらいの薪を背中に結わえ付け、また1時間歩いて帰った。さすがに肩がちぎれそうだなと思ったが、よく見るまでもなくおばあさんと私の量が同じで、それより多く背負っているのが姉さん、男性陣のふたりは2倍はあるんじゃないかという量を背負っていた。何日間か、この薪を集める作業が続いた。

8月13日、最初の雨から一週間。まだ雨は降ったり止んだりしていた。
「水路を直しに行こう」、と号令がかかり、それぞれの家ごとにひとり、もしくはふたりが出て、キャンプ場へと向かった。20人以上いる。
道路に沿って斜面の中腹に作られていた水路は土砂に飲み込まれて跡形もない。
まず、大人も子どもも一緒になって大きな岩をどうにかして掘り起こし、ごんごん下の川に落としていく。土砂がなだれたままで出来立ての急な斜面、上と下で同時に作業をしているため、危ない場面も多かったが、2日ほどかけて大体の大きなものは落としてしまうことが出来た。私も微力ながらもちろん手伝う。

翌々日は、本来の水路があったところまで土を掘っていく。
石の壁を積み上げ、中に小さめの岩を詰め、その上に削った土を投げ込んで突き固める、という作業を何回も繰り返す。
女性陣の主な仕事は土を掘ることと、必要な大きさの石をバケツリレーのように渡していくこと。
石の積み方はやはり技術がいるものなので、それらはおじいさんたちがメインの作業となった。私も少し挑戦してみたのだが、すぐに崩れてしまう。
おじいさんたちは、必要な石のサイズ、形を見極め、若者たちにどれを取れ、と指示を出す。それらはきっちりはまり込むし、ずれない。
私は石を拾っては渡す係りをしていたが、石を選んでリレーする係り、中間でつなぐ係り、それらを投げ込んでいく係り、それぞれ適材適所があり、なんとなく一人ひとりの持ち場が決まっていった。
昼はみんなで円になって、中心に焚き火をし、お茶を沸かして昼ご飯を食べた。たくさん働いたから、ご飯は美味しいし、みんなニコニコしている。みんなそれぞれ持ってきたものを分け合って食べるのも楽しい。
まじめに考えるとこの作業は災害復興のためなのだが、さながらピクニックみたいだなぁとのんきに思う。子どもたちはまだ冷たく、水量も多い川で水遊びをしておとなたちに叱られている。


もちろん、こうした雰囲気の背景として、ハヌパタの被害がラダックの被災地各地に対して比較的軽微だったこと、人的被害が出ていないことは大きい。
それでも、こうもほのぼのとみんなで協力して作業が出来るものか。何が入ってこなくても自分たちで食べて、生きていける自信があるということは強いのだと感じた。
こうして、水路の復興が4日、橋の復興が2日、ほぼ一週間で村の中のライフラインは通常に戻った。収穫直前の畑に水をやれるし、食器も髪も衣服も洗える、いつもどおり橋を渡って山に羊・ヤギ、ロバを連れて行けるようになった。

(1枚目、ロバで出勤するの図、2枚目羊とヤギを村から出しているところ。)
実質的な現金収入源であるキャンプ場が壊滅したままなのが痛いが、もう秋口だ。トレッキングシーズンが終わりつつある上、レーで大洪水になっている状況で登ってくるトレッカーも多くはない。(命知らずも多少はいたということだ。)次の夏まで修理はとっておくことになった。
道は中心都市レーからパキスタンに程近い第二の都市カルギルまでなんとか行けるようになった、という情報がこの頃になって入ってきた。ただ、西方ラダックの道はかなりの範囲でがけ崩れで壊れており、やはり車が通れるのはここから3日あまり歩いていったカルツェという村かららしかった。(私が歩いたら確実に4、5日はかかる。)
しかし、ハヌパタの人にとって道が壊れたことで不便なのは、週に一回のバスが来ないことくらいだったので、直そうという声までは上がらなかった。
そして、私がお世話になっていたNGOジュレーラダックの方たちとも連絡を取ることができた。どうやら、衛星電話を使って掛けてくれたらしい。
日本では私と連絡が取れなかったことから、外務省と両親が連絡を取り合ったり、NGOの方が新聞の取材を受けたりしていたらしい。一方の私は、日に何度か電話は掛けていたが掛からないのだから仕方ないし、レーのあまりにも悲惨な状況を知らなかったので、そこまで緊急性の高いことだとは思っていなかったのだ…。
(私がレーの洪水のニュースを映像で見たのは、後日デリーに戻ってからだった。)
この修復の期間中に、インド軍の小型ヘリが4機、配給食糧を持って村のまん前にあるマメ畑に下りてきてくれた。
のどかな村のど真ん中にいきなり軍用ヘリが飛んできたので、私も含めてみんなびっくりした。
ラダックの多くの村は、インド政府から小麦、コメの配給を受けている。バスが多くの村へ行けなくなり、さらに外部との連絡が全く取れない状況になっていたことをうけての配給ではあったのだが、まさかこんな非常時に、ヘリコプターを使って持ってきてくれることなど、誰も期待していなかったので、驚きは大きかった。
コメ、小麦、いつもは配給されない砂糖が数袋、ヘリから下ろされると、わぁ、と歓声が上がった。村人たちが駆け寄って、カタックといわれる白い絹をインド軍操縦士の首に幾枚も掛ける。これはチベット文化圏独特の祝福の文化なので、いわゆる「インド人」の操縦士たちは分かった、分かった、とお手上げ状態になっていて、少し笑ってしまった。
また後日、インド軍の衛生部隊もトレッキングで村に来てくれた。

(ひとりだけインド人らしくないのが雑じってるけど、錯覚でしょう。)
[3回]
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